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足利尊氏に関する雑学!

新幕府開拓を行った武将

Wikipediaより

皆さん、こんにちは!

今回は足利尊氏に関する雑学をご紹介します!

足利尊氏鎌倉幕府を滅ぼし、日本に室町幕府を開いた武将で、室町幕府初代将軍として知られています。

彼の生涯は、日本の中世における大きな転換点であり、南北朝時代という内戦の時代をもたらすきっかけを
作った重要な人物です。

 

足利尊氏の生涯

幼少期と足利家の家柄

嘉元3年(1305年)8月18日、足利尊氏は源氏の流れを汲む名門、足利家に生まれました。

足利家は鎌倉幕府の有力御家人として勢力を持ち、尊氏も将来を期待されて育ちます。

鎌倉幕府の滅亡と新たな秩序

延慶4年(1331年)、後醍醐天皇鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵し、足利尊氏幕府軍に属していました。

しかし、尊氏は後に後醍醐天皇側に寝返り、延慶4年(1331年)に鎌倉幕府を滅ぼす中心人物となります。

これにより、後醍醐天皇建武の新政を開始しますが、尊氏との関係は次第に悪化します。

室町幕府の成立

建武の新政が失敗し、後醍醐天皇との対立が深まると、足利尊氏は延元元年(1336年)に後醍醐天皇を追い、京都に新たな天皇を擁立しました。

そして、足利尊氏征夷大将軍に任命され、室町幕府を開きます。

これが日本史上二つ目の幕府であり、以降約240年にわたって続くことになります。

南北朝時代の混乱

足利尊氏の政権に対し、後醍醐天皇は京都を脱して吉野で新たな朝廷(南朝)を設立します。

これにより日本は南北朝に分かれて内戦状態となりました。

この時期、尊氏は北朝を支持しながらも南朝との戦いを繰り広げ、室町幕府の地位を確立していきました。

晩年と死

尊氏は晩年、南朝との戦いや幕府内の抗争に苦しみながらも、幕府の基盤を固めていきました。

延文3年(1358年)6月7日に尊氏は病に倒れ、京都で亡くなります。

その後、息子の足利義詮(よしあきら)が後を継ぎます。

 

足利尊氏の偉業

鎌倉幕府の滅亡と室町幕府の設立

尊氏の最大の功績は、室町幕府の成立です。

彼は後醍醐天皇と共に鎌倉幕府を倒し、武士政権の終焉を導きました。

その後、征夷大将軍として、武士による新たな統治体制を築き、日本の政治的基盤を作り上げました。

武士政権の強化

鎌倉幕府時代よりも武士階級がより強固な地位を占め、室町幕府の政治体制を通じて武士による支配が強化
されました。

武士政権の強化は、日本中世の重要な変革でした。

鎌倉幕府で武士が政治の中心に立ちましたが、朝廷との二重支配が続きました。

室町幕府成立後、守護大名が地方統治を担い、武士階級の支配が全国に広がりました。

室町時代後期には戦国大名が台頭し、武士の地域支配がさらに強まり、武士道や文化も浸透しました。

戦国時代末期に新たな権力者が登場し、江戸幕府へと引き継がれました。

 

足利尊氏の名前の由来

足利尊氏は、元々「高氏」と名乗っていました。

「高氏」は、足利家の一族名であり、彼が初めて歴史の表舞台に登場した際の名前です。

しかし、後に「尊」の字を取り入れ、「尊氏」と改名しました。

この改名にはいくつかの背景や理由が考えられています。

  • 「尊」の字の意味
    「尊」という字は、当時の日本では尊貴や神聖さを象徴する重要な文字でした。
    足利尊氏がこの字を名に加えたのは、自らの権威を高め、周囲に対して自分が特別な存在であることを
    アピールするためだったと考えられています

 

  • 改名の時期
    足利尊氏が「高氏」から「尊氏」に改名したのは、彼が足利家を率いて大きな役割を果たし始めた時期、つまり鎌倉幕府を倒し、室町幕府を成立させる頃とされています。
    これは彼の政治的立場を強調するための象徴的な動きと考えられています

 

足利尊氏の「優柔不断」な性格?

足利尊氏は、歴史的に「優柔不断」と評されることがよくあります。

この評価の背景には、彼が何度も立場を変えたり、敵対者と和解するなどの柔軟な対応を取ったためです。

例えば、後醍醐天皇に従って鎌倉幕府を倒した後、尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻し、別の朝廷(北朝)を擁立するという複雑な行動を取りました。

このような動きから、尊氏は決断力に欠けると見る向きもありました。

しかし、彼の「優柔不断」と評される行動は、実は当時の戦国時代においては非常に戦略的なものでした。

彼は一度の決断で勝ち負けを決するよりも、状況を見ながら柔軟に立場を変えることで、長期的な成功を
狙っていました。

この戦略は、彼が長く生き残り、室町幕府を成立させる要因となりました。

 

足利尊氏の武勇伝

足利尊氏は、ただの政治家ではなく、優れた戦上手でもありました。

彼の戦功を最もよく表す出来事の一つが、「湊川の戦い」(みなとがわのたたかい)です。

この戦いは延元元年(1336年)に起こり、尊氏は南朝の忠臣である楠木正成と対決しました。

湊川の戦いの経緯

尊氏は後醍醐天皇と対立し、京都を目指して進軍していました。

一方、楠木正成後醍醐天皇を支持し、尊氏を迎え撃つべく湊川で待ち構えていました。

この戦いで、尊氏は正成の軍を破り、南朝の勢力を大きく削ぐことに成功しました。

楠木正成の最期

湊川の戦いは、楠木正成の最後の戦いとなりました。

彼は戦場で壮絶な最期を迎え、その忠義は今でも日本人に尊敬されていますが、尊氏の勝利により室町幕府がさらに力を持つきっかけにもなりました。

 

後醍醐天皇との複雑な関係

足利尊氏後醍醐天皇の関係は、非常に複雑でした。

尊氏は鎌倉幕府を倒す際、後醍醐天皇の「建武の新政」に協力し、天皇の力を回復させました。

しかし、後醍醐天皇が実権を独占しようとしたため、尊氏は天皇と対立し、最終的に後醍醐天皇を追放して
北朝を立てることになります。

敬愛と葛藤

歴史的な文献によると、足利尊氏後醍醐天皇を個人的に敬愛していたと言われています。

しかし、天皇の政治的な姿勢が尊氏にとって受け入れ難いものであったため、彼は内心で葛藤を抱えていました。

これが南北朝の対立を引き起こし、長期的な内戦に繋がります。

後醍醐天皇への配慮

後醍醐天皇を討つ決断をした尊氏ですが、彼の行動にはある種の敬意や配慮が見られます。

例えば、天皇を直接処罰せず、吉野に退避させて南朝を存続させたことは、尊氏が完全に天皇を排除することを望んでいなかったことを示しています。

この行動は、当時の武士政権と皇室との微妙なバランスを保とうとする姿勢が見え隠れしています。

 

おわりに

足利尊氏の生涯とその行動は、当時の政治的、軍事的な混乱を象徴しています。

彼は優柔不断とされることもありますが、その実、状況に応じて柔軟に動くことで、自らの地位を確立し、
長期的な政権を築いた名将でもあります。

また、後醍醐天皇との関係は、彼の人生を象徴する複雑なテーマであり、武士政権の変遷を理解する上で重要なポイントです。

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以上となります!お読み頂きありがとうございました!

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