面白雑学・豆知識ブログ!

面白いと思った雑学・豆知識を毎日3~4件投稿しています!

明智光秀に関する雑学!

織田信長へ反旗を翻した頭脳明晰な武将

Wikipediaより

皆さん、こんにちは!

今回は明智光秀に関する雑学をご紹介します!

明智光秀は、戦国時代末期から安土桃山時代初期にかけて活躍した日本の武将です。

織田信長に仕えて大きな功績を上げながらも、最終的には「本能寺の変」で信長を討つという劇的な行動を
起こしたことで有名です。

彼の生涯、偉業、そして雑学を以下で詳しく見ていきます。

 

明智光秀の生涯

出生と初期のキャリア

光秀は永正23年(1528年)頃、美濃国(現在の岐阜県)の出身と言われています。

しかし、詳細な生年や出生については不明な点が多く、彼の若い頃についての記録も少ないです。

明智氏は美濃の土岐氏に仕えていた名家で、光秀も若い頃は土岐氏に仕えていたとされています。

その後、彼は斎藤道三の配下となり、さらには越前国朝倉義景浅井長政に仕えるなど、複数の大名の下で経験を積みました。

 

織田信長への仕官

永禄11年(1568年)、織田信長が上洛を果たした際に、光秀は信長の家臣として仕えるようになります。

光秀は頭脳明晰で戦略に優れ、信長の信頼を得て重要な役割を果たすようになりました。

元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちや、天正3年(1575年)の長篠の戦いなど、多くの戦に参加し、信長の勢力拡大に貢献しました。

 

丹波平定と出世

光秀の最も大きな偉業の一つは、天正7年(1579年)に丹波国(現在の京都府兵庫県の一部)を平定した
ことです。

丹波の国は長く独立勢力が存在していた難攻不落の地でしたが、光秀は巧みな外交と戦略を駆使し、織田軍の重要拠点として丹波支配下に置きました。

この功績により、彼は丹波一国を与えられ、京都周辺の政治にも大きな影響力を持つようになります。

 

晩年最期と死因

山崎の戦いで敗れた光秀は、逃亡を図りました。

しかし、天正10年(1582年)に、光秀は戦からの逃走中に現在の京都府大山崎町付近で農民に討たれたと
伝えられています。

この農民が光秀を討ったという逸話は、光秀が「農民に討たれる」という結末として広く知られていますが、これもまた伝承の域を出ていません。

 

明智光秀の偉業

本能寺の変

光秀の名前を最も有名にしたのは、天正10年(1582年)に起こった「本能寺の変」です。

信長が京都の本能寺に滞在中に、光秀は突如として謀反を起こし、主君であった信長を討ち果たしました。

このクーデターは日本の歴史に大きな影響を与え、信長の死後の天下の行方を決定づける大きな転換点となりました。

光秀が信長に対して謀反を起こした理由は、歴史家たちの間で様々な説が唱えられており、ハッキリとはしていません。

個人的な恨みや、信長の強権的な政治に反発した説、天下を取る野望があった説、さらには謀反は計画的ではなく偶発的なものだったという見解もあります。

 

山崎の戦いと最期

本能寺の変の直後、光秀は短期間ながらも京都を掌握しましたが、その統治は長く続きませんでした。

変後、光秀は迅速に反撃され、信長の家臣であった豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)が即座に対応します。

光秀は秀吉との「山崎の戦い」で敗北し、わずか13日間で滅びました。

 

敵は本能寺にあり」の逸話

敵は本能寺にあり」という言葉は、本能寺の変における明智光秀のクーデターを象徴するセリフとして、
知られています。

光秀が兵士たちに対して、京都の本能寺に滞在中の主君織田信長を討つ決意を示した場面を描いたものです。

しかし、このセリフが実際に光秀によって発せられたかどうかは、歴史的には確証がありません。

この言葉が記録された資料はなく、江戸時代以降の物語や創作に由来している可能性が高いとされています。

戦国時代の出来事は、江戸時代に入ると講談や歴史物語として広く伝えられましたが、その中で脚色されて
いったのかもしれません。

また、光秀が信長に反旗を翻す理由についても議論が続いています。

信長からの度重なる侮辱に耐えかねたという説、戦略的に信長を排除する必要があったという説、さらには
単なる野心からだったという説まで、様々な説が存在します。

いずれにせよ、「敵は本能寺にあり」というフレーズは、光秀の謀反の劇的な印象を強めるために後世に創作された可能性が高いと考えられています。

 

「三日天下」の真相

明智光秀は、本能寺の変を成功させた後、すぐに京都を掌握しました。

しかし、彼が天下を支配した期間は非常に短く、結果的に豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)の反撃により滅亡
しました。

このため、光秀の支配は「三日天下」という言葉で象徴されるようになりました。

ただし、実際には光秀が京都での権力を握っていた期間は約13日間です。

そのため「三日天下」という表現はやや誇張されたものであることが分かります。

とはいえ、秀吉の迅速な反撃によって光秀がすぐに打ち倒されたことから、短命な政権というイメージが強調され、このような表現が定着しました。

光秀は本能寺の変の後、短期間で全国の諸大名を味方につけようと試みました。

しかし、彼の行動が急激すぎたため、多くの大名が慎重に動き、結果的に秀吉に対抗できる勢力を築くことができませんでした。

この失敗が、光秀の天下があまりにも短命に終わった理由の一つです。

 

明智光秀のその後の噂

光秀の死についても、いくつかの説や伝説があります。

山崎の戦い豊臣秀吉に敗北した光秀は、逃亡中に農民に襲撃されて命を落としたとされています。

しかし、その死については確実な証拠が少なく、一部では彼が生き延びて他の名前で余生を送ったという噂が広まりました。

特に有名な説が、徳川家康に仕えた僧侶「天海(てんかい)」が実は光秀であったというものです。

天海は、江戸幕府の創設期に大きな影響を与えた高僧であり、徳川家康のブレーンとしても知られています。

天海が光秀であったという説は、江戸時代の民間伝承や噂話として広まったものです。

そのため、史実として証明されたものではありませんが、歴史ファンの間では興味深い仮説として今も語り
継がれています。

 

キリシタンキリスト教徒)との関わり

明智光秀キリスト教徒であったという説も、歴史的な興味深い話題の一つです。

光秀は織田信長の家臣として働いていた時期に、信長が日本におけるキリスト教の布教を容認していたこと
から、光秀自身もキリスト教に触れる機会がありました。

さらに、彼はポルトガル人の宣教師ルイス・フロイスとも接触しており、当時の西洋の文化や思想に影響を
受けたとされています。

光秀が実際にキリスト教に改宗していたかどうかは、確かな証拠はありません。

しかし、彼が西洋文化に対して非常に好意的であり、戦国時代の日本における新しい思想や技術に関心を
持っていたことは事実です。

また、彼の性格や行動は、当時の武将の中でも非常に理性的で学問に優れていたとされ、その知識欲が彼を
キリスト教西洋文化に近づけた可能性もあります。

 

おわりに

明智光秀は、歴史の中で非常に重要かつ複雑な人物です。

織田信長の家臣として多くの功績を上げながらも、最終的に謀反を起こして主君を討ったことで、歴史上に
大きな影響を与えました。

光秀の動機や最期には多くの謎が残されていますが、その人物像は冷静で知的な戦略家であり、また人間的な葛藤を抱えた人物として描かれることが多いです。

--------------------------------------------------------------------------------------------------

以上となります!お読み頂きありがとうございました!

こんな雑学が知りたい!などリクエストがありましたら、是非コメント欄にお寄せください!