未知の世界をヨーロッパに伝えた冒険家
皆さん、こんにちは!
今回はマルコ・ポーロに関する雑学をご紹介します!
マルコ・ポーロ(1254年 - 1324年)は、中世ヨーロッパを代表する探検家であり、商人でもあります。
彼の旅は、当時のヨーロッパ人に未知の東方世界を紹介するきっかけとなりました。
そんなマルコポーロの生涯と業績、さらに興味深い雑学を見ていきましょう。
マルコ・ポーロの生涯
幼少期
マルコ・ポーロは1254年にヴェネツィア共和国(現在のイタリア)で生まれました。
父ニコロ・ポーロと叔父マフェオ・ポーロは著名な商人で、マルコが幼い頃から東方への貿易に従事して
いました。
東方への旅
1271年、17歳のマルコは父と叔父に同行し、ヴェネツィアを出発しました。
彼らは、シルクロードを通り、パミール高原、タクラマカン砂漠、ゴビ砂漠などを経由するというルートで
中国へ向かいました。
1275年には、元の皇帝フビライ・ハンの宮廷(現在の北京)に到着しました。
マルコはハンの信任を得て、約17年間にわたり各地を視察し、行政や外交の任務に携わりました。
帰国と執筆
1295年にヴェネツィアに帰国し、1298年、ジェノヴァでの捕虜生活中に、「東方見聞録」を口述しました。
これはヨーロッパに東方世界の驚異を伝える最初の書物となりました。
晩年と死
晩年のマルコは、ヴェネツィアで商人として過ごし、1324年に70歳で亡くなりました。
マルコ・ポーロの偉業
「東方見聞録」の執筆
マルコ・ポーロの「東方見聞録」は、ヨーロッパの中世社会において東アジアや中央アジアの情報を伝えた
画期的な書物です。
見聞録の中では、日本を「ジパング」と呼び、「金に満ちた島」として紹介し、ヨーロッパの探検家たちの
関心を引きました。
この記述が後に大航海時代の探検に大きな影響を与えることとなります。
中国の元朝の統治体制、紙幣の使用、郵便制度、そして都市の繁栄について記録しました。
東南アジアの交易の中心地や文化、自然、資源についての記述も含まれており、当時のヨーロッパには未知の情報でした。
執筆をした背景としては、マルコが帰国後、ヴェネツィアとジェノヴァの戦争で捕虜となった際、同じ牢獄内にいた作家のルスティケロ・ダ・ピサに口述筆記させたと言われています。
このため、内容には一部誇張や物語的な要素が含まれる可能性があります。
「東方見聞録」は、ヨーロッパ人にアジアへの憧れを抱かせ、香辛料やシルクなどの東方貿易への関心を一層高めました。
特にクリストファー・コロンブスはこの書物を参考に航海計画を立てたと言われています。
東方貿易の促進
マルコの旅は、ヨーロッパと東アジアの貿易や文化交流の重要な契機となりました。
マルコがヴェネツィアに持ち帰った情報は、東方の貿易ルートや品物、文化的な慣習をヨーロッパ人たちに
知らせることとなり、商人や探検家たちがアジアに向かうきっかけとなりました。
特にシルクや香辛料、磁器といった高価な品物がヨーロッパで珍重され、貿易がさらに活発化しました。
マルコの記録は、ヨーロッパ人にとって「未知の世界」に対する好奇心をかき立て、ポルトガルやスペインの探検家たちが新しいルートを開拓する動機となりました。
この流れが、アメリカ大陸やインド洋の航海に繋がるのです。
フビライ・ハンとの交流
マルコ・ポーロは、元朝の皇帝フビライ・ハンの宮廷で約17年間仕えました。
この経験は彼の偉業の中でも特筆すべき点です。
フビライ・ハンはマルコを信頼し、外交や行政に関わる任務を任せたとされています。
具体的には、皇帝の特使として遠隔地を視察し、情報を報告する役割を果たしました。
フビライ・ハンの統治政策や宮廷の様子について詳しく記録しました。
元帝国の官僚制度、広大な郵便網(駅伝制度)についても触れており、それがヨーロッパにはなかった先進的なシステムとして注目されました。
「ジパング」の紹介
マルコ・ポーロが著した『東方見聞録』で登場する「ジパング」は、日本を指す名前です。
彼は日本を「金であふれる島」として、見聞録内で記述をしていました。
見聞録の中では、日本について次のように述べています。
「ジパングでは、国王が純金の宮殿に住み、床から天井まで黄金で飾られている」と書かれていました。
また、「日本の住民は精巧な工芸品を作る技術を持ち、文化的にも高度な社会を築いている」と伝えられて
いました。
ヨーロッパへの影響
この記述はヨーロッパ人の想像力をかき立て、日本は神秘的で豊かな土地として認識されました。
その結果、クリストファー・コロンブスがアメリカを発見した際も「ジパング」を目指していたと言われて
います。
しかし、マルコは日本に訪れたことがなかったため、彼の記述は中国で耳にした話を基にしていると考えられます。
そのため、その内容は事実と異なった部分が多く、金の宮殿や大量の黄金に関する記述は誇張された伝説の
ようなものでした。
「東方見聞録」の信憑性
『東方見聞録』は、マルコ・ポーロがフビライ・ハンの宮廷で過ごした経験を基に記述されています。
しかし、一部の学者たちは彼の実際の中国訪問について、様々な疑問を投げかけています。
一部の学者たちによって、疑問が投げかけられている理由としては、以下の通りとなります。
文化の重要な要素に触れていない・様々な事実と矛盾
見聞録の中には、中国の象徴とも言える万里の長城については一切記載がありません。
また、中国で広く使用されている箸や、それを使った食事の様子も記されておらず、当時の中国では重要な
飲み物だったお茶についても、マルコは触れていません。
一方で、中国の紙幣制度や行政機構、都市の構造などに関しては詳細な記述があります。
これらが正確である一方、いくつかの情報は誇張や他人から聞いた話である可能性も示唆されています。
記録の目的
『東方見聞録』は、マルコが捕虜生活中に口述した内容を元に作成されていました。
そのため、当時の読者を楽しませるエンターテインメントの側面も持っていました。
そうした理由から、見聞録の中身はすべてが事実であるとは限りませんでした。
香辛料ブームのきっかけ
マルコの旅と著書は、ヨーロッパに香辛料の重要性を広める役割を果たしました。
当時の中世ヨーロッパでは、胡椒やシナモン、クローブ、ナツメグなどの香辛料は非常に高価で、富裕層の間で珍重されていました。
食材の保存や料理の風味付け、さらには薬用としても利用されていました。
そうした中で、マルコは香辛料が豊富に生産される地域(現在のインドやインドネシア)について詳しく記述しており、これがヨーロッパ商人たちの興味を引きました。
マルコの記述に影響を受け、香辛料を求めてヨーロッパからアジアへの貿易が活発化しました。
特にヴェネツィアやジェノヴァといった商業都市が恩恵を受けました。
航海時代への影響
マルコ・ポーロの旅の記録は、大航海時代の探検家たちにとって重要なインスピレーションとなりました。
かの有名な冒険家コロンブスは、『東方見聞録』を所持しており、ジパングやカタイ(中国)を目指して航海しました。
結果的にアメリカ大陸を発見したものの、彼の航海の目的にはマルコの影響が強く見られます。
また、ヴァスコ・ダ・ガマもアフリカ南端を回って、インド洋を渡ってアジアへ到達するというルートを開拓しました。
この冒険も、東方世界の豊かさを伝えるマルコの記録が背景にありました。
彼らのように、マルコの記述を信じたヨーロッパ人たちは、ジパングやカタイに辿り着くための航路を探し
続けました。
彼らのそうした過程の中においては、様々な地理的発見が相次ぐ結果となりました。
おわりに
マルコ・ポーロの生涯と偉業は、世界の歴史に大きな影響を与えました。
「東方見聞録」は単なる冒険記録に留まらず、文化交流や貿易、そして探検の精神を広げるきっかけを作り
ました。
彼の旅と記録がなければ、ヨーロッパとアジアのつながりはここまで深まらなかったかもしれません。
彼の業績を振り返ることで、私たちも異文化理解の重要性を再認識できるのではないでしょうか?
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以上となります!お読み頂きありがとうございました!
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