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リンカーンに関する雑学!

自由と統一の象徴の大統領

皆さん、こんにちは!

今回はリンカーンに関する雑学をご紹介します!

アメリカ史上、最も偉大な大統領の一人とされるリンカーン

その人生は、貧しい丸太小屋から始まり、奴隷解放南北戦争の指導を通じて、自由と統一を実現する道へと続きました。

彼の不屈の精神と「誠実なエイブ」と呼ばれる人格は、今なお多くの人々に希望を与えています。

本記事では、そんなリンカーンの人生の軌跡と彼の残した遺産について探ります。

 

リンカーンの生涯

エイブラハム・リンカーン(1809年2月12日 – 1865年4月15日)は、アメリカ合衆国第16代大統領として
歴史に名を刻んだ人物です。

民主主義と人権の象徴的存在であり、その功績は現代でも称賛されています。

幼少期と青年期

リンカーンは、ケンタッキー州ハーディン郡(現ラルー郡)で、貧しい農家に生まれました。

正式な教育はわずか1年程度で、大半を独学で学びました。

特に聖書やシェイクスピア作品は彼の価値観や演説に影響を与えました。

幼少期は農業を手伝いながら、成人後の1930年代は雑貨店員や測量士など様々な仕事を経験しました。

1832年には、米英戦争時代のブラックホーク戦争に志願兵として参加しましたが、戦闘には直接関与しませんでした。

 

政治・国政への道

リンカーンは、1834年イリノイ州議会議員に選出され、政治家としての道を歩み始めました。

1837年には、弁護士資格を取得し、イリノイ州スプリングフィールドで弁護士活動を開始しました。

彼の説得力ある弁論と誠実な性格で評判を得ました。

1842年、メアリー・トッドと結婚しました。二人の間には4人の子供が生まれました。

しかし、その内の3人は幼くして亡くなり、晩年のリンカーンに深い悲しみをもたらしました。

1846年には、連邦下院議員にも当選しました。奴隷制度拡張に反対する姿勢を鮮明にしました。

奴隷制度の拡大に反対する姿勢を示し、1849年に議員職を辞任した後、弁護士活動に専念しました。

 

奴隷制問題への本格的な関与

1854年カンザスネブラスカ法への反対したことをきっかけに政治活動を再開しました。

1856年には、共和党に参加し、奴隷制度廃止を掲げる指導者として注目を集めました。

その2年後の1858年、イリノイ州上院選挙でスティーブン・ダグラスとの討論を通じ、全国的な知名度を獲得しました。

そして、1860年になると、共和党の大統領候補として選出され、民主党の分裂もあり当選しました。

 

大統領就任後の人生

リンカーン1861年3月4日、第16代アメリカ大統領に就任しました。

しかし、大統領就任直後に南部諸州がアメリカ連合国南部連合)を結成し、南北戦争(1861-1865)が勃発しました。

1863年1月1日には、「奴隷解放宣言」を発布しました。

これにより、南部連合の地域における奴隷の解放を宣言し、戦争目的を国家の統一から自由の確立へと進化
させました。

1863年11月、ゲティスバーグの戦場跡で行った演説では、民主主義の理念「人民の、人民による、人民のための政治」を明確に打ち出しました。

1865年1月、リンカーンの努力により議会で憲法修正第13条が可決され、奴隷制度が正式に廃止されました。

1865年4月9日、南部連合の降伏により南北戦争終結しました。

戦後は南部との和解を重視し、復興政策に乗り出す準備を進めていました。

 

暗殺

ところが、1865年4月14日、ワシントンD.C.のフォード劇場で俳優のジョン・ウィルクス・ブースによって
暗殺されました。

撃たれた翌日に亡くなり、アメリカ初の暗殺された大統領となりました。

 

エイブラハム・リンカーンの偉業

奴隷解放宣言

1863年1月1日、リンカーン南北戦争中に「奴隷解放宣言」を発布しました。

この宣言によって、南部の反乱州(連邦に加盟していない州)での奴隷を自由とする法的根拠を与えました。

この宣言は、戦争終結後の奴隷制廃止の基礎を築き、世界中でアメリカの道徳的正当性を強調しました。

これにより、ヨーロッパ諸国(特にイギリスとフランス)が南部の支援を躊躇する結果となり、北部にとって有利な外交状況が生まれました。

 

南北戦争での指導

南北戦争(1861-1865年)は、奴隷制をめぐる州間の分裂と対立が引き金となり勃発しました。

リンカーンは、アメリカ合衆国(連邦)の一体性を守るために指導力を発揮しました。

難しい政治的妥協をまとめながら、軍事戦略でも重要な決断を下しました。

例えば、ユリシーズ・S・グラントを総司令官に任命し、北軍の勝利を加速させました。

南北戦争でのリンカーンの演説や手紙は兵士や市民を鼓舞しました。

また、戦争中の1863年ペンシルベニア州ゲティスバーグの戦場跡で行った演説は、わずか272語という短いものでした。

しかし、この演説の内容は民主主義の本質を簡潔に述べたものとして歴史的に重要です。

「人民の、人民による、人民のための政治」という言葉は、アメリカ合衆国の使命を示したフレーズとして広く記憶されています。

 

憲法修正第13条の成立

1865年、リンカーン奴隷制度を完全に廃止する「憲法修正第13条」の成立を強力に推進しました。

これにより、奴隷制アメリカ全土で違法となり、連邦法として廃止されました。

これはリンカーンの努力の集大成であり、人権の進展を象徴しています。

 

「丸太小屋」出身の大統領

リンカーンは1809年、ケンタッキー州の貧しい家庭に生まれました。

彼の生家は質素な丸太小屋で、木材と土壁で作られたものでした。

幼少期は厳しい労働に従事しながら、学校教育を受ける機会はほとんどありませんでした。

学校には断続的に通ったものの、その合計期間は約1年半と短期間でした。

自宅や農場で手に入る限られた本を独学で読み、読み書きや法学を学びました。

この努力によって弁護士となり、やがて政治家への道を切り開きました。

その生涯は「アメリカンドリーム」を体現するものとして広く語り継がれています

 

「誠実なエイブ」

若い頃のリンカーンは、雑貨店員として働いていました。

そんな中である日、顧客にお釣りを多く渡してしまったことに気付きました。

間違いに気付いた彼は、数マイル(数km)の距離を歩いて顧客の家を訪れ、過剰なお金を返しました。

この行動は「誠実さ」の象徴とされ、後の政治活動でも高い信頼を得る要因となりました。

この時に起きたエピソードが、彼の「誠実なエイブ」という愛称の由来となりました。

 

最初に特許を取得した大統領

リンカーンは1859年、船の浮上装置に関する特許を取得しました(特許番号6469)。

これはアメリカ大統領の中で、リンカーンだけが持つユニークな功績です。

この装置は、浅瀬に座礁した船を浮上させるためのもので、空気で膨らませる浮き袋を使って、船底を持ち
上げる構造となっていました。

実際に使用されることはありませんでしたが、リンカーンの創造性と技術への興味を示す重要な出来事です。

リンカーンは若い頃から機械や技術に関心を持っていたため、南北戦争中も最新の軍事技術を積極的に活用
しました。

 

不朽のイメージ

リンカーンは現在でもアメリカの象徴的な存在として、日常生活で親しまれています。

1セント硬貨にはリンカーンの横顔が刻まれており、1909年に発行が開始され、現在でも流通しています。

5ドル紙幣にも彼の肖像が描かれており、国民的な認知度があることが分かります。

また、ワシントンD.C.にあるリンカーン記念堂は、彼の功績を称える重要な記念施設です。

 

エモーショナルな手紙「ビクスビー夫人への手紙」

南北戦争中、リンカーンは戦死した兵士の家族に弔意を伝えるために手紙を書くことがありました。

最も有名なものが「ビクスビー夫人への手紙」です。

5人の息子を戦争で失ってしまった母親(ビクスビー夫人)へと宛てた手紙は、彼の深い同情心と人間性を反映しています。

手紙の中で、リンカーンは「息子たちの犠牲は祖国の自由と独立のためのものであった」と述べ、感謝と哀悼の意を伝えました。

この手紙はアメリカ文学の一つとしても評価され、多くの人々に感動を与えています。

 

大統領執務室の靴磨き

リンカーンは大統領になった後も、自らの靴を自分で磨く姿が見られました。

この逸話はリンカーンの質素で飾らない人柄を示すものとして有名です。

この行動は「偉大な権力を持ちながらも、地に足のついた人物である」と評価されました。

 

おわりに

リンカーンは、自由と平等を掲げたアメリカの偉大な指導者です。

その貧しい出自から自力での成功、奴隷解放という大義、そして悲劇的な死まで、彼の人生はドラマチック
であり、世界中の人々に影響を与え続けています。

今もなお、彼の言葉と行動は、現代社会における民主主義と人権の基盤として輝きを放っています。

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以上となります!お読み頂きありがとうございました!

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