日本史最大の謎に迫る
皆さん、こんにちは!
今回は本能寺の変に関する雑学をご紹介します!
本能寺の変(1582年6月21日)は、日本の戦国時代における最大の事件の一つです。
織田信長が家臣の明智光秀に裏切られ、本能寺(京都)で自害に追い込まれたこの事件は、信長の天下統一を目前にして起こり、日本の歴史を大きく変えました。
今回は、本能寺の変の背景、経緯、そしてその後の影響について解説します。
本能寺の変の背景
織田信長の天下統一
本能寺の変が起こる直前、織田信長は天下統一を目前にしていました。
1575年の長篠の戦いで武田氏を弱体化させ、1580年には石山本願寺を降伏させるなど、戦国大名の中でも、
圧倒的な勢力を誇っていました。
1582年には甲斐の武田氏を滅ぼし、西国の毛利氏攻略も進んでいました。
明智光秀との関係
特に1579年に丹波を平定するなど、優れた戦功を挙げていました。
しかし、信長との関係は決して良好ではなかったとされており、信長からの叱責や冷遇が積み重なり、不満を募らせていたと考えられています。
本能寺の変の経緯
1582年6月、信長は中国地方で戦う羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)を支援するため、備中高松城の戦いに備えて
いました。
そんな中、本能寺に少数の兵だけを従えて滞在していました。
6月21日未明、明智光秀は約1万3千の兵を率いて本能寺を急襲しました。
光秀は「敵は本能寺にあり!」と号令をかけ、信長を討つことを決意していたと伝えられています。
奇襲を受けた信長は少数の兵で奮戦しましたが、多勢に無勢でした。
最後は本能寺に火を放ち、自ら命を絶ったとされています。
本能寺の変の動機と謎
本能寺の変の最大の謎は「なぜ明智光秀が謀反を起こしたのか?」という点です。いくつかの説があります。
- 怨恨説
信長からの度重なる叱責や冷遇が光秀の不満を爆発させたという説です。
特に光秀の母が処刑されたという話もあり、これが大きな要因になったとも言われています。
- 野望説
光秀自身が天下を取る野心を抱いていたという説です。
信長を討てば、自らが天下人になれると考えた可能性があります。
本能寺の変の影響
本能寺の変によって、信長の天下統一は頓挫しました。
しかし、明智光秀はその後わずか11日で羽柴秀吉に敗れ(山崎の戦い)、逆に天下は秀吉の手に渡ることに
なります。
この事件がなければ、信長が日本を統一し、歴史は大きく変わっていたかもしれません。
おわりに
本能寺の変は、日本史上最大のクーデターとも言える事件です。
光秀の動機や黒幕の存在など、現在でも多くの謎が残されています。
もしこの事件がなければ、織田信長の天下統一は実現し、日本の歴史は全く異なっていたことでしょう。
本能寺の変を巡る謎は、今後も歴史ファンや研究者によって議論され続けることでしょう。
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以上となります!お読み頂きありがとうございました!
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