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杉原千畝に関する雑学!

約6,000人の命を救った「日本のシンドラー」

Wikipediaより

皆さん、こんにちは!

今回は杉原千畝に関する雑学をご紹介します!

第二次世界大戦中に、ナチス・ドイツの迫害から逃れようとしていた多くのユダヤ人難民を救って、「日本のシンドラー」とも呼ばれる外交官・杉原千畝。

彼が発給したビザは「命のビザ」として歴史に深く刻まれていますが、その決断の裏には、自らの立場やキャリアを投げ打つほどの壮絶な葛藤とドラマがありました。

国益よりも人命を重んじた一人の日本人の勇気ある行動と、その数奇な運命について解説します。

 

🎌 リトアニアでの決断!迫り来るナチスの脅威と難民たち

昭和15年(1940年)の夏に、杉原千畝はリトアニアの首都カウナスにある日本領事館で、領事代理として勤務していました。

当時、ヨーロッパでは第二次世界大戦が勃発しており、ドイツ軍の侵攻を受けた隣国ポーランドなどからホロコースト(大虐殺)を逃れようとする大量のユダヤ人難民がリトアニアに押し寄せていました。

彼らがヨーロッパから脱出できる唯一残された道は、シベリア鉄道を経由して日本へ渡り、そこからアメリカなどの第三国へ逃げるというルートだけでした。

そのため、領事館の周りには日本を通過するためのビザ(通過査証)を求める難民で溢れ返ったのです。

 

🖊️ 本省の命令に背いて発給された「命のビザ」

難民たちを目の前にした杉原ですが、当時の日本政府(外務省)はドイツと同盟を結ぶ方向で動いており、

「行き先の国の入国許可がない者や、十分な旅費を持たない者にはビザを発給してはならない」

という厳しい命令を下していました。

何度も本省に許可を求めましたが、返答は「否」でした。

外交官として命令に従うか、一人の人間として目の前の命を救うか――。

激しい葛藤の末に、杉原は人道上の正義を優先して、本省の命令に背いて独断でビザを発給することを決意をします。

ペンの芯が折れ、腕が痺れても、彼は昼夜を問わずビザを書き続けました。

 

🚂 タイムリミットと救われた6,000の命

ソ連による領事館の退去命令が下り、リトアニアを去らなければならなくなった最後の日まで、杉原はビザを発給し続けました。

駅に向かう道中や出発する列車の窓からでも白紙の許可証に署名をして投げ渡したと伝えられています。

約1カ月という短い期間に彼が発給したビザの数は2,139枚でした。

一つの家族で1枚のビザを使うことができたため、これにより救われた命はおよそ6,000人に上ると推定されています。

彼らが日本を経由して無事に世界各地へ逃げ延びたことは、奇跡的な脱出劇として語り継がれています。

 

🎖️ 辞職と名誉回復:戦後の不遇から諸国民の中の正義の人へ

多くの命を救った杉原ですが、戦後の1947年に外務省を退職することになります。

表向きは組織の縮小が理由とされましたが、実質的には命令違反の責任を問われた事実上の解雇だったと言われています。

その後、彼は商社などに勤め、日本の世間から長い間忘れ去られた存在となっていました。

しかし、1968年、かつて命を救われたユダヤ人との再会をきっかけとして、彼の功績が世界中で知られるようになります。

1985年には、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人」という最高名誉賞が贈られました。

日本政府により正式にその功績が称えられ、名誉回復が行われたのは、彼がこの世を去ってから14年も経った2000年のことでした。

 

おわりに

国家の枠組みを超え、人間の良心に従って行動した杉原千畝。

彼が書き残した「命のビザ」は、極限状態におけるヒューマニズムの象徴として、今でもなお世界中の人々に勇気と感動を与え続けています。

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以上となります!お読み頂きありがとうございました!

こんな雑学が知りたい!などリクエストがありましたら、是非コメント欄にお寄せください!