戦国の歴史を刻む日本の名城
皆さん、こんにちは!
今回は大阪城に関する雑学をご紹介します!
戦国時代の覇者・豊臣秀吉が築き、天下統一の象徴となった大阪城。
その壮麗な天守閣は、かつて金箔で輝き、人々を圧倒する存在でした。
しかし、大坂の陣で焼失し、のちに徳川幕府によって再築されるという数奇な運命を辿ります。
現在も大阪のシンボルとして親しまれる大阪城の歴史や見どころを、じっくりと紐解いていきましょう。
大阪城とは?
戦国武将・豊臣秀吉が築いたこの城は、日本史上の重要な舞台となり、現在も多くの観光客を魅了し続けて
います。
壮大な天守閣と堅牢な石垣、美しい公園など、歴史と自然が融合するスポットとして親しまれています。
大阪城の歴史
大阪城の歴史は、1583年に天下統一を目指した豊臣秀吉によって始まりました。
織田信長の死後、秀吉は大阪の地に強大な城を築き、ここを拠点に政治を行いました。
当時の大阪城は、金箔で装飾された豪華絢爛な城だったと言われています。
しかし、徳川家康が台頭すると、大阪城は戦乱の渦に巻き込まれます。
1614年の大坂冬の陣においては、徳川軍と豊臣軍が戦い、大阪城は包囲されましたが、和睦によって一度は
存続しました。
1615年の大坂夏の陣では、ついに豊臣家が滅び、大阪城は焼失しました。
これにより、天下は徳川家のものとなりました。
新たに築かれた城は、豊臣時代のものとは大きく異なり、より堅固な要塞としての役割が強まりました。
明治時代には大阪城の多くが取り壊されましたが、昭和6年(1931年)に天守閣が再建され、現在の姿となりました。
さらに、平成の修復を経て、大阪城は大阪を象徴する観光スポットとなっています。
大阪城の見どころ
大阪城の見どころは、以下の点にあります。
- 大阪城天守閣
現在の天守閣は、1931年に再建された鉄筋コンクリート製の建物ですが、内部は博物館になっており、
豊臣秀吉の生涯や大阪の歴史を学ぶことができます。
最上階の展望台からは、大阪市内を一望できます。
- 圧巻の石垣と堀
大阪城の石垣は、高さ20mを超えるものもあり、戦国時代の防御力の高さを物語っています。
特に「蛸石(たこいし)」と呼ばれる日本最大級の石は、驚くほどの大きさです。
- 大阪城公園
四季折々の美しさを楽しめる公園として、多くの市民に親しまれています。
春には約3,000本の桜が咲き誇り、お花見スポットとしても有名です。
秋には紅葉、冬には雪景色と、一年を通して異なる魅力を楽しめます。
金箔で輝いていた!?
豊臣秀吉の時代、大阪城の天守閣は金箔で装飾され、豪華絢爛な姿を誇っていたと伝えられています。
なぜ金箔を使ったのか?
豊臣秀吉は、権力を視覚的に示すことに長けていました。
彼は戦国の覇者として、権力の象徴を築くために大阪城を金色に輝かせました。
これは、かつて京都にあった「聚楽第(じゅらくだい)」や、後に建てられる「金の茶室」と同じく、豊臣の威光を示すためのものでした。
当時の記録によると、天守の外壁には金箔を押した瓦が使われていたとされ、太陽の光を反射して遠くから
でも輝いて見えたと言われています。
これは、秀吉が目指した「天下人」のイメージを強調するためでした。
金箔はどれくらい使われたのか?
具体的な金の使用量は不明ですが、秀吉の財力を考えると相当な量の金が使われたと推測されています。
実際に、後に彼が建てた名古屋城の「金鯱(きんしゃち)」には、約44kgもの金が使われたとされており、
大阪城の装飾にも同様の贅沢がなされた可能性が高いです。
現在の大阪城には金箔があるのか?
現在の大阪城は、1931年に再建されたもので、当時のままの金箔は残っていません。
しかし、復元された天守の装飾には一部金色の瓦が使われ、秀吉の時代の面影を偲ばせるデザインとなって
います。
徳川時代の大阪城は、豊臣の城とは別物!?
大阪城は、豊臣秀吉の築城したものと、徳川幕府が再建したものは全く異なるという点が重要です。
秀吉の築いた大阪城は、防御のためだけでなく、政治の中心としての役割を持ち、豪華な造りが特徴でした。
特に天守閣は巨大で、当時の日本では類を見ないほどの規模でした。
しかし、1615年の大坂夏の陣で徳川軍の攻撃を受け、天守を含む城の大部分が焼失しました。
徳川幕府による再築
豊臣家を滅ぼした後の徳川家康は、大阪城の再建を命じましたが、これはあくまで「徳川の城」としてのものでした。
豊臣の城をそのまま再建するのではなく、以下の点が大きく変更されました。
- 石垣の大規模な改築
豊臣時代の石垣を取り壊し、新たに大きな石を使った強固な石垣を築きました。
その際に全国の大名が石を提供し、「刻印石」と呼ばれる家紋入りの石が残っています。
- 豊臣時代の遺構は地中に埋没
豊臣時代の遺構は破壊された後、新たな城を築くためにそのまま埋められました。
1995年の発掘調査で、地下から豊臣時代の石垣や井戸などが発見されています。
つまり、現在の大阪城は「徳川時代の大阪城」であり、「豊臣秀吉の大阪城」は地中に眠っているのです。
なぜ大阪城は「大坂城」ではなく「大阪城」?
大阪城の表記については、「大坂城」から「大阪城」へと変わった経緯があります。
戦国時代から江戸時代初期にかけて、大阪は「大坂(おおざか)」と表記されていました。
江戸時代に入り、「坂(さか)」という字が「土に返る」(=滅びる)という意味を連想させるとして、縁起が悪いと考えられるようになりました。
特に大阪城は豊臣家が滅びた場所でもあるため、「再び滅びる」というイメージを避けたかったのです。
そこで、幕府の方針として、「大阪(おおさか)」という表記に統一されました。
幕府の意図も関係していた?
また、「大阪」という表記の変更には、江戸幕府が豊臣家の影響を払拭したいという思惑もあったと言われています。
「大坂」という表記は豊臣時代の名残を感じさせるため、新たな「徳川の時代の大阪」を強調するために、
あえて表記を変えたのではないかとも考えられています。
江戸時代の文献では、「大坂」と「大阪」の表記が混在していました。
明治時代になると、政府の公的な文書では「大阪」が統一され、現在では「大阪」という表記が正式なものとなりました。
おわりに
大阪城は、豊臣秀吉の夢と野望が詰まった歴史の舞台であり、戦国時代から現代に至るまで多くの人々を魅了し続けています。
戦乱の歴史、圧巻の石垣、美しい公園など、見どころが満載です。
歴史好きの方も、観光を楽しみたい方も、一度は訪れる価値のあるスポットです。
ぜひ、大阪城へ足を運んで、その歴史と魅力を体感してみてください!
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以上となります!お読み頂きありがとうございました!
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