新政府の立ち上げと経済・産業発展を担った人物
皆さん、こんにちは!
今回は大久保利通に関する雑学をご紹介します!
大久保利通(おおくぼ としみち)は、明治維新の立役者の一人であり、近代日本の礎を築いた政治家です。
西郷隆盛や木戸孝允と並んで「維新三傑」と称され、江戸幕府の打倒や日本の近代化に大きな役割を果たし
ました。
彼の生涯と偉業、そして雑学について見ていきましょう。
大久保利通の生涯
誕生と初期の人生
大久保利通は文政13年(1830年)に薩摩藩(現在の鹿児島県)で生まれました。
彼の父は下級藩士で、利通も幼少時代から厳しい藩の生活を送りましたが、学問に励み、後に薩摩藩の藩政に関与するようになります。
幕末の活動
幕末期、大久保は薩摩藩のリーダーとして台頭し、特に藩主の島津斉彬のもとで活躍します。
斉彬の死後も、藩内で力をつけ、尊皇攘夷運動や討幕運動に関わるようになりました。
彼は西郷隆盛と共に薩長同盟を結び、幕府打倒に向けて行動します。
この同盟は、幕府を倒す上で決定的な役割を果たしました。
明治維新と新政府
1868年の明治維新後、大久保は新政府に参加し、近代日本の基礎を築くための改革を推進します。
彼は政府内で内務省の創設に関わり、内務卿として国内の経済発展や治安維持に尽力しました。
彼の政策の中心は、富国強兵と殖産興業で、日本を西洋列強に対抗できる国にするための基盤を整えました。
暗殺される運命 ― 紀尾井坂の変
大久保利通が暗殺された事件「紀尾井坂の変」は、1878年5月14日に起こりました。
この事件は、彼の急進的な改革に対して不満を抱いていた士族らによって引き起こされたもので、彼の死は新政府の重要人物の喪失という大きな衝撃をもたらしました。
この事件を引き起こしたのは、旧士族たちであり、特に不平士族と呼ばれる、明治新政府に不満を持つ武士層が中心となっていました。
彼らは、明治維新後の急激な改革と、特に廃刀令や秩禄処分(武士への給与制度の廃止)など、士族の特権を奪う政策に反発していました。
彼らにとって、大久保はその象徴的存在だったため、暗殺の標的となったのです。
紀尾井坂の変の後、大久保の冷徹で強硬な政治姿勢を批判する声がある一方で、その改革の成果が評価され、日本の近代化が加速するきっかけにもなりました。
彼の死後もその影響力は消えることなく、日本の政治・経済に大きな影響を与え続けました。
大久保利通の偉業
明治政府の中枢として
大久保利通は、特に明治政府の内務卿として、経済・産業の発展に力を入れました。
工場や学校の設立、鉄道の敷設、農業の改良など、広範な政策を実施し、日本の近代化を加速させました。
また、地方制度の整備にも取り組み、中央集権化を進めました。
これにより、地方の藩主に依存しない、統一された近代国家が誕生しました。
岩倉使節団への参加
1871年、大久保は岩倉使節団の一員として欧米諸国を視察しました。
この使節団では、日本の政治、経済、社会制度の近代化に必要な情報を収集し、帰国後、それをもとに様々な改革を推進しました。
特に西洋の技術や知識を導入することに強い意欲を見せ、これが日本の急速な近代化の原動力となりました。
西南戦争と西郷隆盛との対立
一方で、大久保は西郷隆盛との対立で知られています。
西郷が主導した士族反乱の西南戦争(1877年)にて、大久保は新政府側の立場を取って反乱を鎮圧しました。
西郷とはかつて同盟を結んだ仲でしたが、彼の政策が士族層の利益に反するものであったため、二人は次第に袂を分かつこととなりました。
維新三傑の一人としての評価
大久保利通は「維新三傑」の中で最も実務的であり、冷静かつ論理的な思考を持つ政治家でした。
西郷隆盛が武力や精神的な指導力で薩摩藩士や士族層を引っ張った一方、大久保は政治・行政の改革を冷静に進めました。
また、木戸孝允(桂小五郎)も政治的な才能を持ち合わせていましたが、大久保は特に実行力に優れ、政策の現実化に焦点を当てたリーダーシップを発揮した点で際立っていました。
西郷のようなカリスマ性はなく、どちらかと言えば裏方的な存在でしたが、大久保の役割は日本の近代化に
おいて決定的でした。
彼は自分の意思を強く持ちながらも、他人との調整や交渉に長けており、その実務能力は新政府内でも高く
評価されていました。
手紙の巧者としての大久保
大久保利通は、政策の調整や意見交換の場として「手紙」を効果的に利用しました。
特に家族や親しい友人に宛てた手紙は、彼の人間性を垣間見る貴重な資料です。
大久保の手紙は丁寧かつ感情豊かであり、彼が戦場や政局の合間にも家族を思いやる姿が描かれています。
彼の手紙の文章は、政治的な交渉においても非常に効果的であり、感情を上手くコントロールしながら、冷静に論点を示すスタイルは多くの人に影響を与えました。
特に岩倉使節団の派遣に関する手紙や報告書は、彼の政策論が具体的に記されています。
日本を近代化させるために何が必要かを細かく分析し、その分析を元に提言や改革案を立案する姿勢が見受けられます。
手紙は大久保にとって、自身の考えを整理し、他人に伝える重要なツールだったのです。
経済政策と殖産興業への貢献
大久保利通は、明治政府における内務卿として、経済政策に大きな影響を与えました。
特に殖産興業政策は彼の代表的な業績の一つです。
この政策は、産業の振興と経済の発展を目指し、特に農業・工業の近代化に焦点を当てたものでした。
大久保が関わった代表的なプロジェクトの一つが、富岡製糸場の設立です。
この製糸場は、日本で最初の本格的な機械製糸工場であり、日本の産業革命の象徴とも言える存在です。
大久保は、製糸業が外貨を稼ぐための重要な産業であると認識し、その振興に尽力しました。
また、工業だけでなく農業の近代化も推進し、稲作や畜産業における技術革新も進めました。
おわりに
大久保利通は、冷静な政治判断と実行力で、日本の近代化を進めた立役者です。
彼の政策は日本の発展に大きく寄与しましたが、その強硬な改革姿勢ゆえに多くの敵も作りました。
しかし、彼の業績が日本の近代国家形成に与えた影響は計り知れず、今も多くの人々に評価されています。
--------------------------------------------------------------------------------------------------
以上となります!お読み頂きありがとうございました!
こんな雑学が知りたい!などリクエストがありましたら、是非コメント欄にお寄せください!