日本の外交に尽力を注いだ人物
勝海舟は、幕末から明治時代にかけて活躍した日本の政治家、軍人、そして外交官として知られる人物です。
本名は勝 義邦(かつ よしくに)ですが、一般には「勝海舟」という名前で有名です。
彼は江戸時代の幕府海軍を立て直し、近代日本の発展に大きく貢献した人物の一人であり、特に西洋の知識を積極的に取り入れたことで知られています。
勝海舟の生涯
幼少期と若い頃
勝海舟は文政5年(1823年)1月30日に江戸の貧しい武家の家に生まれました。
幼少期は学問に優れ、江戸の学問所で学びましたが、幼少期は家計が厳しく、生活に苦労していました。
若い頃は、海舟は蘭学に強い興味を持ち、オランダ語や航海術などを学びました。
これは、後の彼の海軍指導者としての役割に繋がります。
海軍への貢献
幕府は、ペリー提督の黒船来航(1853年)を契機に西洋の脅威を感じ、海軍の強化を目指しました。
海舟はその中心人物の一人となり、アメリカやヨーロッパの海軍技術を取り入れて、幕府海軍を近代化させ
ました。
1860年には、日本初の洋式軍艦「咸臨丸(かんりんまる)」の艦長として太平洋を横断し、アメリカへ渡ったことで名を馳せました。
彼のアメリカ訪問は、日本が西洋の知識と技術を学ぶ契機となり、海軍や外交の発展に重要な役割を果たし
ました。
江戸無血開城
勝海舟の最も偉大な業績の一つとして知られているのが、江戸無血開城です。
1868年、戊辰戦争が勃発し、新政府軍(明治政府)と旧幕府軍の対立が激化しました。
新政府軍が江戸に迫る中、勝海舟は新政府側の代表である西郷隆盛と交渉を行い、戦火を交えずに江戸を明け渡すことを決定しました。
この決断により、江戸市中の多くの人々の命が救われ、歴史的に大きな転機となりました。
明治時代の活動
明治時代になると、勝海舟は政府の一員として新しい日本の発展に貢献しました。
彼は参議(政府の高官)の役職に就き、主に外交や海軍の再編に携わりました。
しかし、政治的に活発な役割を果たすのは一時的で、晩年は政治から退き、静かに余生を過ごしました。
晩年
勝海舟は、長寿を全うし、明治32年(1899年)1月21日に76歳で亡くなりました。
勝海舟の偉業
幕府海軍の近代化
勝海舟は、西洋の航海術や技術を学び、それを幕府海軍の近代化に役立てました。
特に咸臨丸の太平洋横断は、日本が西洋に対抗できる力を持つ第一歩となりました。
江戸無血開城
戊辰戦争の最中、勝海舟は西郷隆盛との交渉により江戸の街を無血で新政府軍引き渡しに成功しました。
この出来事は、日本の歴史において特筆すべき平和的解決策として知られています。
外交手腕
勝海舟は、国際的な視野を持ち、西洋の外交や文化を理解していた数少ない日本人の一人でした。
彼の外交的な手腕は、幕末から明治時代にかけての日本の国際化に大きく寄与しました。
多言語に通じていた勝海舟
勝海舟が多言語に通じていたという点は、彼の外交活動や海軍改革における大きな強みでした。
特にオランダ語に精通していたことは、当時の日本において非常に重要でした。
なぜなら、幕末の日本は鎖国状態にありながら、長崎の出島を通じてオランダとの交流が唯一許されていた
からです。
このため、西洋の最新の知識や技術は主にオランダ語を通じて伝えられていました。
オランダ語学習の理由
勝海舟がオランダ語を学んだのは、西洋の進んだ軍事技術や航海術を日本に取り入れる必要性を感じていた
からです。
彼は蘭学塾(オランダ語や西洋の学問を学ぶ学校)に通い、オランダ語の文献を読み、西洋の軍艦の運用や
航海技術を学びました。
これが、彼が後に幕府海軍の近代化を推進する際に大いに役立ちました。
西洋の知識の吸収
勝海舟は、オランダ語を通じて西洋の最新の科学技術や政治、軍事理論を学ぶことができ、これが彼の広い
視野と国際的な感覚を育んだ要因となりました。
海舟は特に、西洋の軍艦の運用方法や海軍戦略について深い理解を持ち、これが日本海軍の近代化に貢献
しました。
アメリカ渡航での語学力
勝海舟は、咸臨丸でアメリカに渡航した際、英語を学びつつ西洋の外交慣習にも触れました。
彼の語学力と異文化理解の能力は、咸臨丸での外交任務やその後の交渉において、非常に有益でした。
西郷隆盛との友情
勝海舟と西郷隆盛の友情は、幕末の日本政治において象徴的な関係として語り継がれています。
二人は江戸無血開城を通じて深い絆を築きましたが、その背景には相互の尊敬と信頼がありました。
江戸無血開城
1868年、戊辰戦争が激化し、旧幕府軍と新政府軍(明治政府)との対立が高まっていました。
江戸城が戦場となる可能性があった中で、勝海舟は幕府軍の代表として、新政府軍の西郷隆盛との交渉を行いました。
勝海舟は、江戸市民の生命を守るため、戦火を避ける必要性を説き、西郷もこれを受け入れました。
こうして江戸城は無血で新政府に引き渡され、歴史的な「江戸無血開城」が実現しました。
二人の信頼関係
この交渉を通じて、二人の間には強い友情が芽生えました。
勝海舟は、西郷隆盛を「立派な人物」と評価し、西郷も勝を「信頼できる人物」として尊敬していました。
二人の間には、政治的な立場を超えた人間的な尊敬があったと言われています。
後世に残る友情
この友情は、二人の死後も語り継がれ、歴史的に重要なエピソードとして知られています。
勝海舟と西郷隆盛の関係は、政治家としてだけでなく、日本の平和的な政権移行の象徴ともなっています。
著書の執筆
勝海舟は、政治家や海軍指導者としての活動のかたわら、数々の著書や日記を残しています。
これらの著作は、彼の思想や時代背景を理解するための貴重な資料となっており、彼の知識や経験が幅広い
分野に及んでいたことを示しています。
「海舟全集」
勝海舟の著書の中でも代表的なものが「海舟全集」です。
この書は彼の回顧録や日記、政治や外交についての意見が記録されており、幕末から明治初期にかけての歴史的な出来事や彼自身の人生観が描かれています。
彼の思想は、特に国際的な視点や、日本が西洋の知識を取り入れつつも独自の道を歩むべきだという考えに
根ざしています。
日記や手紙
勝海舟は日記や手紙を多く残しており、そこには彼の個人的な感情や当時の政治的状況についての洞察が
含まれています。
彼の書簡の多くは、友人や同僚に宛てたもので、当時の日本の政治や社会情勢についての重要な証言となっています。
書道の達人
勝海舟はまた、書道にも優れていました。
彼の書は力強く、独特の風格を持ち、数々の作品が後世に残されています。
彼の書道作品は、単に芸術的な価値だけでなく、彼の内面や思想を表現したものとしても評価されています。
おわりに
勝海舟は、その多言語にわたる学識、外交手腕、そして江戸無血開城を実現した平和的な交渉能力で、幕末の日本に大きな影響を与えました。
西郷隆盛との友情や、数々の著書に残された彼の思想は、今日でも日本の歴史と文化において重要な位置を
占めています。
彼の生涯は、幕末から明治にかけての激動の時代を生き抜いたリーダーとして、日本の未来を見据えた行動を常に心掛けていた人物像を鮮明に映し出しています。