日本を開国させた大名
皆さん、こんにちは!
今回は井伊直弼に関する雑学をご紹介します!
井伊直弼は、幕末期の大名で、江戸幕府の大老として知られています。
特に日米修好通商条約の締結や「安政の大獄」を主導したこと、また桜田門外の変で暗殺されたことで歴史に名を残しています。
彼の政治的手腕と、激動の幕末における強権的な政策は、多くの論争を呼びました。
ここでは、井伊直弼の生涯、偉業、そして彼にまつわる雑学について詳しく見ていきます。
井伊直弼の生涯
幼少期から井伊家の跡継ぎまで
井伊直弼は、文化12年(1815年)に彦根藩(現在の滋賀県)の第14代藩主・井伊直中の子として、生まれ
育ちました。
14人兄弟のうちの末子という立場であったため、若い頃は藩主となる見込みはほとんどありませんでした。
彼は一度は「埋もれ木」という質素な生活を送り、学問や武道に励む日々を過ごします。
しかし、兄たちが次々に死去したため、最終的に30歳を過ぎてから藩主に就任しました。
大老への就任
安政5年(1858年)、徳川家茂が将軍に就任した際、幕府の大老に任命されました。
井伊直弼は、この職務に就くや否や、国際的な状況の中で大きな決断を迫られることになりました。
桜田門外の変
安政7年(1860年)3月3日、井伊直弼は江戸城に向かう途中で、水戸藩と薩摩藩の浪士たちによって襲撃
され、暗殺されました。
これが「桜田門外の変」です。
井伊の暗殺は、幕府の権威が揺らぎ始めた象徴的な出来事で、幕末の動乱が加速するきっかけとなりました。
井伊直弼の偉業
日米修好通商条約の締結
安政5年(1858年)、井伊直弼は、開国を迫るアメリカの圧力に対応するため、日米修好通商条約を締結させ
ました。
これにより日本は鎖国を解き、貿易を開始することとなります。
この条約締結は、日本にとって西洋列強との新しい関係を築く転機となりましたが、幕府内外で大きな反発を招きました。
特に将軍継嗣問題や条約締結に反対する勢力との対立が深まりました。
安政の大獄
井伊直弼は、幕府内の反対派を一掃するために「安政の大獄」を行い、反対派の大名や尊王攘夷派の志士たちを厳しく弾圧しました。
この政策は強硬なものとして知られ、多くの有力者が投獄、追放、あるいは処刑されました。
この行動により直弼は権力を維持しましたが、これが後に彼の暗殺の引き金となります。
井伊家と赤備え
井伊家は、戦国時代から有名な「赤備え(あかぞなえ)」という赤い鎧をまとった軍団で知られています。
戦国武将・井伊直政が、徳川家康の家臣として戦った際に、勇猛果敢な赤備えで恐れられたことが由来です。
この伝統は幕末期の井伊直弼にも引き継がれていました。
茶人としての井伊直弼
井伊直弼は、政治家としてだけでなく、文化人としても知られ、特に茶道に造詣が深いことで有名です。
彼は茶道の一派である「宗徧流(そうへんりゅう)」を学び、茶人としての名を「宗観(そうかん)」と
しました。
茶道の精神に深く根ざした彼の生活は、政治的な強硬手段とは対照的な一面を見せています。
著書「埋もれ木」
井伊直弼が書いた「埋もれ木」は、彼の茶道や人生観についての随筆です。
若い頃、後継ぎの見込みがなかった直弼が、自分の人生を「埋もれ木」になぞらえたことからタイトルが
つけられました。
彼はこの中で、どんな状況にあっても己を磨くことの大切さを説いています。
井伊直弼と西郷隆盛の接点
井伊が主導した安政の大獄によって、西郷は追放され、南の島・奄美大島に流されたことがありました。
この経験が西郷の後の人生に影響を与え、尊王攘夷運動の台頭に繋がるきっかけにもなりました。
おわりに
井伊直弼は、日本の開国と幕末の激動を象徴する人物です。
日米修好通商条約の締結や安政の大獄といった彼の政策は、当時の日本に大きな変化をもたらしました。
しかし、その強硬な手段により、多くの反発を招き、暗殺という悲劇的な結末を迎えました。
ですが、その政治的手腕と茶道を通じた文化への貢献は、彼の多面性を示すものであり、現代に至るまで語り継がれています。
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