コロンブスの知られざる航海の秘密とその功績
皆さん、こんにちは!
今回はコロンブスに関する雑学をご紹介します!
クリストファー・コロンブスは、世界史においてその名を刻んだ偉大な探検家として知られています。
しかし、その功績とともに、彼の航海や生涯には数多くの興味深いエピソードと誤解が隠されています。
本記事ではコロンブスの生涯とその業績に関する雑学を通じて、彼の航海がどのようにして実現し、
どのような影響を与えたのかを詳しく探ります。
イタリア人でありながらスペインのために航海
コロンブスは1451年にジェノヴァ(現在のイタリア)で生まれました。
彼は若い頃から航海に関心を持ち、ポルトガルを拠点に様々な航海経験を積みました。
しかし、彼の西回りでインドへ向かう航海計画はポルトガル王室には支持されず、代わりにスペインの
カトリック両王、イサベル1世とフェルナンド2世に支援を求めました。
最終的にスペインの支援を受け、1492年に彼の有名な航海が実現しました。
大西洋横断航海の誤算
コロンブスは地球のサイズを過小評価し、アジアへの新しい航路を西に向かって発見しようとしました。
当時のヨーロッパの地図や計算では、地球は現在の推定よりもはるかに小さいと考えられていました。
そのため、コロンブスは思いのほか短い距離でアジアに到達できると信じていました。
しかし、彼が到達したのはアジアではなく、現在のバハマ諸島の一つであるサン・サルバドル島でした。
本当の「発見者」ではない
コロンブスが1492年にアメリカ大陸に到達したとき、すでに数多くの先住民が住んでいました。
さらに、ノルウェーのバイキングであるレイフ・エリクソンは約1000年頃に北アメリカに到達し、
現在のカナダのニューファンドランドにヴィンランドという定住地を築いたとされています。
これにより、コロンブスは「新大陸の発見者」というよりも、ヨーロッパと新大陸の間の継続的な接触を開始した人物と見なされます。
コロンブスの日記
コロンブスは航海中に詳細な日記をつけていましたが、オリジナルは失われています。
現在知られているのは、彼の息子フェルナンド・コロンによって編纂されたものであり、彼の航海の記録を
提供しています。
この日記には、航海中の出来事、天候、発見物、先住民との接触などが詳細に記されています。
船の名前
コロンブスの最初の航海には3隻の船が使用されました。
「サンタ・マリア」は旗艦であり、最も大きな船でしたが、航海中に難破してしまいました。
「ニーニャ」と「ピンタ」は小型のキャラベル船で、航海の成功に大きく貢献しました。
「ニーニャ」は実際の名前ではなく、元々の名前は「サンタ・クララ」でした。
新しい大陸だと気づかなかった
コロンブスは生涯を通じて、自分が到達した土地が新しい大陸であることに気づきませんでした。
彼は最後まで、自分がアジアの一部に到達したと信じていました。
そのため、彼は新大陸を「インディアス」と呼び、先住民を「インディオ」と呼び続けました。
不確かな出生地
コロンブスの正確な出生地は一般的にはジェノヴァであるとされていますが、その他の場所も候補に挙がっています。
一部の歴史家は、彼の出自について異なる説を唱えていますが、詳細な証拠は少なく、議論が続いています。
奴隷貿易の開始
コロンブスは彼の航海中に多くの先住民を捕らえてスペインに送りました。
これがヨーロッパと新世界の間の奴隷貿易の始まりとなりました。
彼の探検は新しい土地の発見だけでなく、先住民に対する虐待や搾取の歴史も伴っています。
コロンブスの遺体の行方
コロンブスの遺体は埋葬後に何度か移動されました。
彼は最初にスペインのバリャドリッドに埋葬され、その後セビリアに移されました。
後に、彼の遺体はドミニカ共和国のサントドミンゴに運ばれ、その後キューバのハバナに移されました。
最終的に再びセビリアに戻されましたが、ドミニカ共和国には彼の遺骨の一部がまだ残っているという説も
あります。
コロンブスの地図の影響
コロンブスの航海は、ヨーロッパの地図製作者たちに大きな影響を与えました。
彼の航海後、地図には新しい土地が追加され、世界の地理的な理解が大きく変わりました。
これにより、ヨーロッパの探検家や冒険家たちが新しい世界を探索する動機付けとなりました。
おわりに
コロンブスの冒険と業績は歴史的に重要ですが、先住民の酷い扱いについても深く考える必要があります。
彼の功績とともに、その負の側面も含めて評価することが大切です。
以上となります!お読み頂きありがとうございました!
こんな雑学が知りたい!などリクエストがありましたら、是非コメント欄にお寄せください!